死ぬ日のことを考える
突然ですが、死ぬ日のことを考えたことありますか。
未来のこと考えるひまがあったら、今のことを考えろといわれそうですが、私はあります。
季節は秋で、コートがいるかいらないくらいの微妙な寒さで、心地よい風が吹いていて、空は青空で、ちょっとばかし金木犀の匂いが香っていて...
髪の毛はおばあちゃんになっていたら白髪で
死ぬ日はワンピースを着ていたらいいな。イチョウのような黄色のワンピース。
お葬式はしない。
お墓はいらない。
な〜〜んてことを考えている。
いつ死ぬかわからないけれどねぇ。
最近健康すぎる生活を送っているので、生きるのがしぶとそうです。
穏やかに、穏やかにすごしたい。
またね、ありがとう
またね
大阪へ憧れの夫婦を見に行った。
私の大好きな音楽家だ。
彼らのつくる曲は、あったかいけれど、どこか残酷な部分もあって、綺麗事ばかりではない世の中を気づかせてくれる。
ハンバートハンバートの中でも、「虎」「ぼくのお日さま」「がんばれにいちゃん」などが好きなのだけど、好きな曲は結構披露してくれたので嬉しい。
ハンバートハンバートも谷川俊太郎もそうだけど、本当の本当を知っているところ、本当の本当を気づかせてくれる所が大好きなんだろうなぁと「好き」の原点を改めて感じた。
友達と行ったのだけど、友達と見るハンバートハンバートは最高でした。酔った体で気分が上がり、音楽にのって体が動き、最高の夜、最高の23歳がきれたようなきがする。
———————
ピカソ展にも行った。
ピカソの線画を知るまで、変な絵を描く人としてしか知らなかった。彼の線画を知って好きになって、奇抜な色使い、繊細な線、に魅力を感じたのもここ数年だ。
ピカソ展には、缶バッチのガチャガチャがあるのでガチャガチャをすることをオススメしたい。
そんなことはともあれ、仕事も音楽もzine作りも、英語も出来る限りやってみよう。
お金を稼いで、好きなことをして、好きなことを誰かが評価してくれるまで私はひっそりと耐え凌ごう。
まっててねぇ、一年後の私。
好きな季節がやってきた
こんばんは
どんな夜を過ごしていますか。
このところ心は不安な気持ちになったり、がんばるぞの気持ちになったりで忙しない。
もうすぐ23歳になってしまう。
22歳の私より強くなれたのだろうか。素敵な23歳になりたい。
23歳の私は実家を出ているんだろうか?
家族のことは好きだけど、家に帰らない日にいちいち「どこいってたの?」「どこに泊ったの?」「友達は何してる子なの?」「大学の友達?」と聞いてくるのが最近ちょっと嫌だし、しんどい。どこか私のことを誰も知らない街に住んで、働いて、1からスタートしたい気持ちにすごくなる。なじみのない場所がなじみある場所にかわっていく風景をみてみたい。
22歳の私はいろんなことがありました。
病気をたくさんしたし、悩みはつきず、軽くうつ病みたいになりかけたし、たくさんいろいろなところにいったし、大好きな友達にも会えたし、大学も卒業できたし、なんだかんだ充実していたのかなぁ。
誕生日の夜はナイトショーでも見に行こうかと...。
お酒を飲んでべろべろになりたいね。
よしもとばななのサウスポイントを読みながらそろそろ寝ようと思います。
おやすみなさい。いつもありがとう。
終電を逃す夜
初めて終電を逃した。
あれもこれも全てうまくいかない。
お酒を飲んでも飲んでも酔えない体はいつからだろう。
カラオケで数時間過ごし、今朝の駅にいる。
駅の床で寝ている人、私のように朝帰りの人、これから朝がスタートするひと。
みんなそれぞれの今日をチクタクチクタクと刻んでいる。
胃が痛い。
お気に入りの赤のスカートもなんだかくすんだ気がする。化粧もきっと崩れている。
吉澤さんの「残ってる」を聴きながら家へ帰ろう
。
生きる
暑いという言葉じゃ表せないくらい暑い。これは、"愛してるという言葉じゃ足りない"というセリフと似ている。
近所の蝉の鳴き声はうるさく、太陽の刺すような光は私を殺そうとしてるのではないかと思うほどだ。
2100年には平均温度が40℃越えが当たり前になる可能性が高いらしい。それまで私は生きているのだろうか?
最近は、死についてよく考える。
私はいつまで生きるんだろうか?私はいつ、どのような場所で、どんな風に死ぬのだろう。私の死を悲しんでくれる人が側にいるのだろうか?今私は本当に生きているのだろうか?
そんな未来の誰もが計り知れないことを考えても仕方ないことだと私はわかっているのに考えてしまうのだ。
そんなの今考えたって仕方ないよ!と言われるかもしれないけれど、「死と向き合うことは、生きることである」と尊敬する教授が言っていた。死とは何なのか、生とは何なのか、私の頭の中でずっとぐるぐる宇宙のように円を描きながらまわっている。
クーラーのついた涼しい部屋で本を読みながら週末を過ごす予定を考えて、日々を生きる。
豪雨と私
こんばんは
元気にしてますか。私は少し曇り時々雨。いつ晴れるかは未定である。
先日は、記録的な豪雨で私の生まれた土地が大変なことになった。
同じ県に、市に住んでいても日々の生活が何も変わらないことに不思議さを感じる。お母さんの友達などは、救援物資を避難所に届けているようだ。
様々な人たちが、知らない誰かのために「自分にできること」をしている。私はというと何かをする元気がでない。義援金の募金箱に数百円を入れるのが精一杯である。薄情者と言われるだろうか?
ボランティアというと、無償で誰かのために何かを提供することであると私は思っている。「してあげる」という行為ではなく、上下関係のない「する」「したい」という思いがなければ、ただの思いの押し付けやエゴになってしまう。助けてあげているのにという思いが出てしまえば一瞬にしてボランティアではなくなってしまいそうだ。
私はボランティアという行為は恐ろしいものであると思っている。綺麗で清いものにみえるが、よく見れば人間の欲望や汚さがにじみ出ているような気がする。ボランティアという響きが、肩書が苦手なのかもしれない。
この豪雨で自然には勝てないということをひしひしと感じた。
命は脆く、一瞬にして消えてしまう。そんなとき思ってしまう。「私、このまま死んだら嫌だな」
大好きな友達と叶えたい夢もあるし、行きたいところだってあるし、したいこともたくさんあって、それを実現させるまでは死ねないな~と思うのだ。
しぶとく這いつくばって生きよう、叶えたい夢を叶えるために時間を有効に使おう。
すぐ記憶が零れ落ちてしまう私に晴れ間がみえますように。
ただ平穏な生活を送りたい
何もかもがうまくいかない。
不安になったり、悲しくなったりする。
叱られるたびに、私はなんてダメな人間なんだ...と自己肯定感が削られ、胸のあたりが苦しくなる。
叱られるのを恐れ、叱られないように真面目に、相手の顔色を伺いながら生きてきた私にとって叱られることは相当ストレスがかかる。
大学のゼミも相当ストレスだったが、ゴールがあったから頑張れたようなものだ。
仕事にゴールはない。終わりが見えない。
職場には私と歳がひとまわり、ふたまわり、離れた先輩しかおらず、経験値も大きく違い、知識量も違い、判断力も違う。
私の仕事の出来なさに並行してどんどんどんどん暗い暗いトンネルの底に吸い込まれていくような、そんな感覚に陥る。
でもこれを乗り越えたら必ず成長できるという、確信に近いものもある。がんばれ、わたし。